命と生命 ~神を顕す





神をその身に宿し顕すということは

身体に備わる『本能』に逆らうということ

すべてが真逆なわけではなく

矛盾するものが『本能』にあるということ



神々も千差万別

崇高な神もあれば情け深い神もある

当然「悪神」もあるわけであるが



崇高な神の光は強い

強すぎるため肉体の『本能』と『精神』のバランスを保つのが難しい


神の意志は強い

揺るぎなく盤石で堂々としたその『意』の『言霊』は

肉体の『本能』や『精神』など抵抗しようがない

必死に『矛盾』を掴み抵抗しても無駄なほど


だから『手放す』ことをしなければ、歪みを生み精神を崩壊させる

準備が出来ないうちはやるべきではない


大本教の出口王仁三郎氏の息子さんが「無理に神を降ろす」ことをして精神を病んだという



何度かブログでも書いていますが、神を顕すは命がけです

その都度命をかけるわけではなく

命の『執着』を手放すこと

人生で当たり前とされてきた『常識』を手放すこと


身体の『本能』とは矛盾してはいますが

生命そのものの『存在理由』とは矛盾しない


命は『鼓動』

生命は『活動』


『活動』するために命の『鼓動』が与えられているのであるから

そこに一切の矛盾はない

しかし肉体の『本能』に囚われて

本来生命が在るべくして在る『活動』を

理屈して捻じ曲げて

その捻じ曲げた理屈に合わせて『神』を据え置いた


だから『蛭子』がたくさん生まれたわけである

『禍霊』『悪霊』『けもの神』

人間の『本能』に寄り添う『蛭子神』たち

それゆえ霊界は『混沌』を成す



『命』と『生命』の違いを知り

神と我が身を和せねば神は顕れず

『蛭子神』を宿すこととなる



『命』と『生命』を理解すること

それが菊理姫から伊弉諾大神へのささやき

『鼓動は終われども生命は終わらぬ』

生はかたちを変えながら続く

那岐・那美の両神は今も生命の中にある



菊理姫のささやきは『肚くくり』の言霊

命と生命の矛盾を和し

神と我が身の矛盾を和す


理屈して我が身大事と執着すれば

直霊は曲がり

理(ことわり)を曲げ

ゆえに『禍霊(まがひ)』の拠り所となる



霊界の神々も『禍霊』に依り

善の神も知らずに悪神となり

理(ことわり)は曲がり

情け深き神々は増え

もはや本来の理(ことわり)を忘れてしまった



もはやこの地球(ほし)を創生した神々でなければ

真っすぐな『理(ことわり)』を知らず

理(ことわり)を正せない

ゆえに

創生の神々を顕すは『命がけ』である

『命』よりも『生命』である


『命』があるから『生命』があるのではなく

『生命』のため『命』与えられしもの


その理(ことわり)を肚に据える『肚くくり』

菊理姫の言霊を解せねば

岩戸は開かぬ


岩戸閉じたまま顕れる神は『蛭子神』

幽界の海に漂うしかない


人の『理屈』で生まれた『蛭子神』たち

そんな『蛭子神』たちをも大神の元へ帰す

しかれど人は未だ『蛭子神』を生み続け

罪深き業を生み続ける


手放し出来なければ

鳴門の渦に巻かれん



肚括り

その【覚悟】が

覚醒と悟りへの道である