『言霊』の道しるべ




先日から『本を創る』ために改めて3年以上前の自分の記事を見直しながら再編しています。  

3年ほど前にブログを見た出版の人が『本を出しませんか?』と言われたときのものをあらためて読み返してみると、やはりすでに導き通りに進んでいたのだとわかります。 


 あの時は出版社の意向で『面白いもの』を出してほしいと言われていましたが、その後、結局何も進まずモヤモヤしながら今日まできました。  

進まなかったのはやはり自分が伝えたいものと求められているもののギャップが大きかったからでしょう。 


 では一体自分は何を残したかったのか・・・・ 




 最近、やたらと高い本を何故か好んで買っている。 

 伝書や技術書の類から秘伝書のようなものまで。  

本屋に行っては棚の届きにくいところに手を伸ばし、まるで掘り返すように探し出すような本ばかり。  


癒奏術をもっと高めるためではありますが、だいたいは『すでに在る』ことがわかり、結局は今までのように『手探り』で進むのだと再認識するに至った。 

ただ、その本を手に取ることで、あらためて『本』という存在を一歩も二歩も引いた目で眺めることが出来た。 


 こういった「掘り返してようやく出てくる本」というものは、『山を登るもの』にしか価値がない【道しるべ】なわけで・・・  

そして、出版社が求めていたものは『山の裾野』での催しのようなもの。  

ただ、それは『入口』としては大切なのだろうと。 



 実際、本当に『山に登る』人は少ない。 

伝書というのは『山の途中に出てくる道しるべ』であり、山の三合目でようやく見えるもの、五合目まできて見えるもの、八合目まで来なければ全く理解できないもの・・・・ 

それらを裾野にいては見えもせず理解もできないのは当たり前のこと。 



 私がずっと持ち続けている本がある。 

沢庵禅師が柳生宗矩に宛てた手紙を世に出した【不動智神妙録】という本。 

禅の達人が剣の達人に宛てた手紙である。 


 そんなものは一度読んだだけではわかるはずがない。 

五年たち十年たち二十年たちようやく『あぁそういうことだったのか』と理解することも多々ある。 

それも文章が『肚に入っていて』初めてそうなるわけである。 

肚に入っているからふとした時に『あ!』という気付きになる。 



 様々な神話や世に出された神示も同じ。 

その山を登りその道を歩いて初めて『道しるべ』が理解できる。  

裾野から山の八合目にある道しるべなど見えるわけもなく、七合目からでもその真意は見えない。  

八合目まで登ってやっと『あぁ、こんな道しるべだったか・・・』と理解ができるものである。 



3年前に自分が書いたもの見ても、けっこうわかりにくいことが書いてあるなとつくづく思う。  

それを解りやすく書いてほしいと言われるが、わかりやすく書いたところで理解は得られても『気付き』は得られない。 

 何故なら『肚に入っていない』からである。  

そして何よりかみ砕いてしまうと、せっかくの【言霊】が失われてしまう。 


【言霊】が失われればそこにある【力】そのものが失われる。 

「理解」したものと「気付き」を得たものとでは、その【力】に大きな差が出来るのである。 



 かみ砕いて与えるというのは、赤ちゃんに与える離乳食と同じ。  

料理本来の味もわからないし、料理を食べる力もつかない。 

食べる力がなければいつまでたっても自力で生きられないのである。 



 言霊をかみ砕けばその分栄養となるものが失われる。 

 言霊は『霊の栄養』である。  

それをいつまでも離乳食ばかりでは、いつまでたっても『霊』が成長しない。 

『霊』が成長しないから身体は大人でも、いつまでも幼児のような人となってしまうわけである。



 伝書や秘技書や極意の書とは『霊』の成長も必須となる。  

身体の成長と霊の成長が合わさり始めて『技』は力を持つ。 

『霊』を『精神』と言った方がわかりやすいかもしれないが、言霊が全く異なりこれも『かみ砕いた離乳食』となるものだろう。 


 八合目、九合目まで行ってようやく出てくる道しるべの言霊は、簡単にはかみ砕けず呑み込めないものである。 

しかし、それを自らの力でかみ砕き呑み込んで、自分の霊の血肉に変えられたなら、それは大きな力となる。 


 『誠の言葉ほど硬くて呑み込めない』 

 【日月神示】にもそんな一文が出てくる。 




 話は最初に戻りますが、本を創るにあたって躊躇していたのは『言霊をかみ砕く』ことを躊躇していたのだとようやく気付いた次第です。 

変えてはいけないものを変えようとしていたから、一向に進まなかったのでしょう。 


 3年前のあの時に書かれたものは、あの時の言葉そのままが【最善】であり、それを後になって変えればその時の『言霊』の力が失われてしまう。 


『言葉』とはそのようなものであり、『現れたときが最善』です。 



『言葉』の裏側にある『火』が『言霊』 

 その『火』を栄養とするのが『霊』 

 山を登るものだけが 自らの力でかみ砕いて栄養とできるものだけが 秘技秘伝の『極意』に至れる 

 

技を伝えるというのはそういうものなのだと・・・・      





癒し人 Healer by Koji

龍使いの女神の力と龍使いの力を持つ癒し人 ヒーラー & セラピスト 独自のヒーリングセラピーで『魂』まで【癒し】をお届けします そして女神の力で世界を癒します

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