⦿伊和の神




人は情報を取り入れているようで

実は情報ではなく判断を求めている

だから

「何を言ったか」ということより

「誰が言ったか」ということのほうに重きを置く


それは

自己で判断が出来ないから誰かの判断に従うというもの

自分で判断をするために情報を得ているのではない

誰かの判断に寄り添うことで得られる安心感を求めているということ



自分で判断できなければ振り回されても文句は言えない

自分の判断より誰かの判断に従ったのであれば

その判断が間違っていたとしても一蓮托生である

そこには「誰かの判断に従った」という【自己判断】に責任を持つという覚悟がいることである




判断を下す場所

それが自分の中に在る天秤の真ん中の軸

その軸に責任を持たなければ天秤は常に真ん中を移動して

何も測ることが出来ない代物となる



誰かが言ったから

誰かにやらされたから

仕方がなかった

それは自分で決断したわけではないという言い訳

しかし最終的に決断したのは自分である

自分の判断より誰かの判断を優先するという判断を下したのは自分である




人の顔色や空気を見て自分の確たる判断を曲げるようでは

真ん中はぐらついて歪んでいるということ


そこに神は顕れぬ


顕れたとて周りを見て自分の軸を曲げてしまうのであれば

神が言霊を顕す意味など無くなる



ましてやこんな時期である

神の目から見て9分9厘が間違っていれば

神は当然正しい方向を示そうとする

だから世界中を敵に回す覚悟がなければ

神は顕せぬ

顕せねば顕れぬ



後ろ指を指され

陰口をたたかれ

罵倒され

見捨てられても貫ける

曲がらぬ心が誠の柱



自分の真ん中から出てくる火

それが神の意

それを栄えさせるが和

真ん中の・(い)

栄えの〇(わ)

⦿(いわ)は神と人が弥栄える姿




真ん中出せよ

自分の真ん中を

そして身・口・意

三蜜揃え貫けよ



「三蜜」という言葉が現れだしたのも神の計らいである