ニュースの見方





皆さんが『報道番組』と思ってみているもののほとんどは、『情報バラエティ』というカテゴリに属する番組です。

いくらそれらしく作りこんでも、あくまでも『バラエティ』というスタンスをテレビ局側は譲らない。

それには理由がある。

ニュース報道では『嘘』はつけない。

しかし『バラエティ』では『嘘』があってもいいのである。

それは放送の倫理を管理する側の『BPO』自身が認めたことだからである。

「バラエティだから嘘があってもしかたない」

BPO側が語った言葉である。

だからテレビでニュース番組といえば、各番組の隙間にほんの数十秒から1~2分流れるだけのものしかない。

それ以外はすべて『報道バラエティ』なのである。




10年ほど前の政権交代が起こったとき、毎日のように『捏造情報』がテレビや新聞から溢れていた。

そして、メディアが官僚側と結託して、情報操作がを繰り返されるのを目の当たりにしてきた。

それは

政権交代をさせたくないメディアや官僚が『スクラム』を組んで阻止する動きに出ていたからである。

何故ならその時、民主党代表をしていたのが『小沢一郎』氏だったからである。


当時、小沢氏が掲げていた政策の中に「放送電波の新規参入を促すための自由化」と「特別会計250兆円を一般会計化する」というものがあった。

この二つの政策がメディアと官僚を『結託』させることとなった。

だまって政権を取ってからやればいいものを、それを堂々と話していたものだから、結果、四面楚歌の状況になっていったわけである。



『放送電波の自由化』となれば今のテレビ各社は競合にさらされることになる。

ほんとうはそれが『健全』さを取り戻す呼び水となるのだが、今更「清流」になど住めないものばかりになっていたから、テレビも新聞も週刊誌も一丸となって「小沢つぶし」に全力を注いだ。

その結果、現在では当たり前になっている『メディアスクラム』という状況が生まれ、まるで各局が申し合わせたような『報道の一元化』へと動いていった。


そしてそれを応援するように、官僚たちから援護射撃のように意図的な『情報』が流される。

そしてその情報は一元化され、テレビ、新聞で同じ内容の同じ温度差の情報が発信されていったのである。

利害が一致したもの同士、同じ敵を叩くためにスクラムを組む。

以来、この情報の流れは確固たるものとなっている。



新聞はテレビのような嘘のつき方は出来ない。

ではどのように『嘘』をつくのか?


かつて探偵をしていたころ、某新聞社の記者がこちらの業界に転がり込んできた。

彼は探偵に必要な『調査能力』は皆無で、よくそんなことで報道が出来たものだと思ったのだが、話を聞いて納得した。

すべては『言葉尻』や『ニュアンス』を変えて情報を『創作』するのである。

なんの根拠もない、何の変哲もない事を、あの手この手の言葉を尽くしてそれらしく飾り立てて行く。 

すると尤もらしいいかにも『重大な事実』に思える情報が出来上がる。

それで『嘘をついてはいないが事実ではない情報』が出来上がる。


『嘘』をついていなければいい・・・

つまりは『言い切る』ことをしなければいいのである。

それが語尾や言葉尻や接続語を駆使することで、または『誰かに語らせる』ことで、法律上『自分は嘘はついてはいない』という方便を駆使するのである。



そうやって「ここまでなら許される」という『嘘』の幅をどんどん広げて、現在ではいとも簡単に『情報操作』を法に触れることなく出来るシステムが盤石のものとなってしまった。

ましてや「法を執行する側」がそこに入っているのであるから、少々タガが外れても許される。




そんな10年ほど前、徹底的に情報操作を暴き、官僚と司法の意図や捏造を掘り出す者たちがいて、ようやく政権交代が実現したのである。

しかし、小沢氏だけは守り切れなかった。


始めは小沢氏に対して『罪を着せよう』としていた官僚やメディアであったが、罪を着せることが出来ないと気づいて、その後は『徹底的に泥を投げつけて汚す』ほうに舵を切ったからだ。

そうなると『事実無根』でも何でもよくなる。

『汚れた印象』さえ付けられればいい。

だからテレビも新聞も『写りの悪い』写真や映像を選んで掲載し、嘘でもかまわない『噂』を発信し続け、それをスクラム組んで毎日のように流すことで人々の心に『刻み込んで』いった。

これが『印象操作』という手法である。



人は印象操作にかかりやすい。

それは『感情』を巧みに動かされる仕組みだからである。

だがそれは言い換えるなら『心』を意図的に動かされているということ。

心地よい『善意』と『正義』の仮面をかぶった言葉に人はいとも簡単に動かされる。

『善意』なら・・・

『正義』の為なら・・・・・


やがて『悪』へと巡る見せかけの『善意』と『正義』に流されてゆくのである。



人は「他人に情けをかけている」ようで実は「自分へ情けをかけている」ことに気付かない。

他人に情けをかけるのは、心の奥底に「情けをかけてほしい自分」への代償行為でもある。

そして人はそれを『愛』と呼び間違う。



愛とは何であるか?

わかるか?

本当にわかるのか?


瀬織津姫は常にそう問いかける。

それがわからねば『誠』の柱が立たぬからである。


神は安易に『愛』など語りはしない。

ただただ行動するのみである。


『愛』に見せかけた『情け』を語るは何者であるか?

情けの水に溺れさせるは何者であるか?



誠出さねば真(まこと)に渦に呑まれる。

それを知るため神が与えた『序章』が今である。