壺の中の賽(さい)の目 ~軒猿その5





今現在起こっていることの終着点はまだまだ見えていない。

コロナウィルスは『未知』の部分を多く含んでいる。

だからこそ『わからない』という現実を肚に据えなければならない。



必死に答えを探そうと躍起になって心が逸(はや)る。

そんな逸る心に『喜怒哀楽』の感情が張り詰めている。

だから、あーでもない、こーでもないと必死になっている。

まるで賭場の丁半博打の壺の中身の賽(さい)の目をグルグルと想像し、張り詰めた状態で『壺』にくぎ付けとなっているようである。

透視能力でもあれば凝視していれば壺の中身は見えてくるだろうが、わからないものはわからないのである。


丁半を『賭けた』時にすでに出来ることは終了している。

壺が空くまでは終着点はわからない。




人がいかに『博打的』に生きているかとういうことである。

それは当然のこと

未来はわからないからである。

ただ『わかったつもり』になっていただけである。

そして潜在意識の恒常性は『わかったこと』にしたがっている。

だから嘘の情報でも『わかったこと』に出来るところへ落ち着いてゆく。



嘘の基盤に塗り固められた土台で長年生きてきたため、嘘の土台こそが「安定基盤」であると潜在意識の恒常性は認識している。

だから『嘘』に納まってゆく。

自分の想定を超えるものはすべて『偽り』と処理したがるのが人の潜在意識の恒常性である。

だから、その恒常性の反応を熟知して治めればいいということ。



人は『真実』を求めてはいない。

『安心』できる【幻想】を求めているのである。

だから「心を乱す」情報を『デマ』と言い、「心を静める」情報を『真実』という。

何が事実かは関係ない。

波立ち逸る感情を静めてくれる情報が『真実』となる。

『情けに報いる』のが情報である。




そうして人々が『壺』に集中している裏側でも『時』は止まらず進んでいる。

多くの未来が見ていないところで作られているのに、壺に見とれて見逃して後の祭りとなるのがオチである。



お腹がすいた犬の前に餌を置く。

ぎりぎり届かないところに置いておく。

すると犬は前足をガリガリと掻いて必死に餌を取ろうとするが届かない。

『前脚を搔かせる』という心理手法。

政治経済津々浦々で使われる。



『洗脳』というのは『情報操作』である。

つまり『人の情け』を操る。

感情を左右振り回せば人の思考は停止する。

最も強い一つの感情を基点に思考が縛られてゆく。

そして最終的にその『感情』を静めるものが『真実』となる。

嘘か本当かはどうでもいい。



そうして幻想の中で眠りにつく。

マトリックスの『人間電池』のたとえのように。

辛い『真実』よりもおだやかな『夢の中』がいい。



そんな『夢の中』で『目覚め』の夢を見ながら人は眠り続けている。



だからスピリットの目覚めでも『夢の中』へ行こうとする。

より良い『幻想』を求めて。

嘘か本当かはどうでもいい。

より『心地いい』幻想の世界へと向かう。



魂にまで『情』が絡み付いているため

すべてが『情』を基にしている。

喜怒哀楽に揺れる『情』であるから、軸が定まらずグラグラ揺れて、流され溺れ藁をも掴む。

手あたり次第掴めるものを掴みだす。




渦に巻かれるか

山となるか

今年が分かれ目の一年である。