象徴天皇とはいったい何なのか?
ずっとそんな疑問があった。
第二次大戦後、GHQにより「実権のない国民統合の象徴(シンボル)」というふうになったという過程もあるが、では『天皇陛下とは何なのか?』という問いに対しても、なぜか「国民統合の象徴(シンボル)」という言葉が出てくる。
世界中の王侯貴族や教皇が一堂に会したとして、その中の誰一人として天皇陛下の「上座」に座ることを許される者はいない。
そんなお方が『象徴』といったいどういうことなのか?
そんな疑問をずっと持ってきた。
天照大御神から続く万世一系の御一族。
そんな言い方もあるだろう。
しかし・・・
神話を紐解くと矛盾が出てくる。
そこにはあまたの争いの跡が垣間見える。
争いのたびに上書きされてゆき、実際、本当のところは誰にも解らないのではないかと思える。
日本の神話は何百年や何千年というものではなく、宇宙創成からの途方もない物語である。
当然人など生まれてはいないころからの神話である。
では、何故それを知りえたのか?
それとも神話はただの作り話であるのか?
それが天皇陛下が天皇陛下たる所以(ゆえん)ではないのだろうか?
人も生まれておらぬ宇宙の創世から知っているもの・・・
それは創造主だけである。
その創造主しか知りえない真実を知るということは、創造主と語り合うということだ。
もしくは創造主から教えられたということだ。
更には創造主から連なる神々と語り合うということ。
それは、とりもなおさず神と繋がり、神と語り、神が確かにあることの証明でもある。
神があり、神世があり、神世とこの世が繋がりあうことの証明でもある。
そして、神がこの世に関わり合いを持ちながら、この世と神世の橋渡しをするということを明らかにし続けて来た存在・・・
それが天皇陛下及び天皇家に連なる方たちだろう。
では、天皇陛下とは何であるか?
何の「象徴」であるか?
それは、神と人を結ぶ『現人神』の象徴であると思う。
神と人が和合する。
神と人が和合した世界が「弥勒世」という。
それはどういうことか?
それを示し続けてきたのが天皇という存在なのだと思う。
『現人神』という神と人が和合した姿の象徴。
そして、これから迎えるであろう『弥勒世』に住まう『現人神たち』の象徴であるばかりでなく、教師であり模範であり基準となる存在なのだろう。
天皇陛下及び天皇家が現わして来た神々を、すべての人がその身に現わせるように・・・
だからこそ、天皇陛下を手の届かない高みに飾り付けておくのではなく、人々の『真ん中』にしなければならないのではないか?
人々が真ん中に『模範』として据え置く存在とならなければ意味がないのではないか?と思う。
しかし、多くの人は未だ『神』という存在を本気にはしていない。
だからやむなく「奇跡」を起こさなければならない。
しかし、奇跡で人は真に目覚めることはない。
先日の大嘗祭の奇跡を見て、いったいどれだけの人が目覚めたか?
ブームで神社やパワースポットには出向くが、本当に信じ切っているものがどれほどいるだろうか・・・
そもそも「信じ切る」ということそのものを出来る人がどれほどいるのだろうか?
目に見えないもの、手で触れないもの、温もりを感じられないもの・・・
それを信じ切れるものがどれだけいるのだろうか?
天皇とはその目に見えない、手で触れられない、温もりを感じられない神々を『信じ切って』祈り続けてきているのではないか?
声にならない言葉を聞き、それを信じ切って実行してきているのではないか?
それも何千年もの間を・・・である。
そして、神話をつづり、その神話を頼りに神社へ赴いていながら、やはり信じ切ることが出来ないでいる。
それでも未だ神を信じ切れないのであれば、神と人が和合する『弥勒の世界』など夢のまた夢である。
真剣に思いを貫き、真剣に祈りを捧げ、真剣に向き合えば自ずと見えてくる。
信じ切れないのはやはり「真剣さ」が足りないのかもしれない。
『信ずる』ということを真に知らなければ、いつまでたっても『疑い』の沼からは出られない。
『信』を知ればわざわざ『疑う』ということが必要なくなる。
それは、騙される騙されないの話ではなく、何を信ずればいいかを知っているから『迷わない』ということである。
『信じ切れない』というのは『迷い』である。
信は芯となり真となるもの。
信ずることで芯が生まれ、『迷い』という『ブレ』が無くなり、結果、真を知ることとなる。
芯がないからブレて迷いに陥るのである。
天皇陛下を見ればわかるはず。
迷いなくブレなく神を信じて祈っておられる。
だからこそ神を現わすことが出来る。
それが『現人神』
神を現わせるはずの日本人の『象徴』たる『現人神』である。
だからこそ天皇陛下を人の『真ん中に』据えて、『現人神』たる手本としなければならないと思う。
いつまでもバベルの塔のてっぺんに据え置いておくのはいかがなものかと思う。
そして、真ん中から四方八方世界に広がり上下神世と幽世にも『現人神』を真ん中に、十方広げて神人和合した世界としなければならないはず。
未だ人にかかれぬ守護神にも知らしめて、未だ彷徨う幽世の霊にも知らしめて、すべての世界の調和をもたらす時が来ている。
奇跡をもって芯とすべからず
信をもって芯とすべし
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一昨日より九州へ行っていましたが、昨日、急遽【宇佐神宮】に呼ばれて、予定を変更して向かったところ、神宮の少し外れたようなところにある【大尾神社】が呼んだ主でありました。
【大尾神社】は宇佐神宮の摂社で、八幡大神である「応神天皇」が初めに降りたとされる小さな山の頂上にあるところで、後に宇佐神宮の本宮に御魂を遷され、現在は本宮からの分け御霊をお祀りしているとのこと。
しかし、あきらかにそこへ呼ばれた・・・・
そして、夜中に帰宅してクタクタのところこれを書いています。
きっと、応神天皇の思いが繋がったのかもしれません。
ちなみに、わたくしは個人的に現天皇陛下が大好きです。(変な意味ではなく(笑))
たぶん幼いころより。
それは【皇太子浩宮殿下】の「浩」の一字がわたしの名前にもあったからでもあります。
それで幼いころから勝手に親近感を持っていました。
だからこそ余計に思うのかもしれません。
単なる「象徴天皇」として終わってほしくないと・・・・
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