ここ2~3日何故か【岩長姫】に呼ばれているような・・・・
そんな気がして「また福知山へ行くか」などと考えながら【岩長姫】に
「あなたはいったい誰だ?」
などという問いかけをしていた。
それは【岩長姫】なのだが、しかし何故か「誰?」という意識が抜けない。
そんな折に何故か昔のことを思い出す・・・・
昔・・・
調査の仕事をしていたころ、とある依頼が来た。
それは、目の見えない高齢の母が一人暮らしをしており、時折出かけているようなので心配だから様子を見てほしい・・・
という娘さんからの依頼だった。
なるほど。
目の見えない高齢者が町中を一人で出歩くのは危険だ。
そう思い依頼を引き受け、お母さんの一日を観察することにした。
そして、我々は自分たちの高慢さを思い知ることになる。
お母さんが自宅の玄関を出てどこかへ向かい始めたので、尾行を開始してお母さんの後を同じ速度で歩き始める。
すると、10秒もたたないうちにお母さんは立ち止まり、ふと後ろを振り返る。
「何か忘れものでもしたのだろうか?」
そして、すぐに前を向いて再び歩き始める。
こちらも同じように歩き始める。
すると再び立ち止まりお母さんが振り返る・・・
「・・・・・気付かれてる。」
今度はかなり距離を開けて後を歩くと振り返らなくなった。
「やはり気付いていたか・・・」
やがて信号待ちとなったお母さんの近くに歩み寄っていくと、再びこちらを振り返る。
他にも歩行者は居るし信号待ちの人も居る。
しかしこちらに何故か気付く・・・・・
お母さんの視界にはどのような世界が広がっているのかはわからない。
しかし、それを「目が見えない」ということで「見えない」ものだと思い込んでいた。
傲慢である・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
目が見えるということは実は「見ている」ものに囚われる。
そして、「見えていない」ものに気付かなくなる。
「見る」ということで「見えない」世界が増えるのである。
そして、「見えない」ということで「見える」世界が増えるのである。
山の頂からは多くのものが見える代わりに、下界の様々な様子が見えなくなる。
薄汚れた町も高みから見れば美しくなる。
『その美しさにとどまって下界を離れた・・・』
『見ないようにした・・・・・・』
『磐根となって下で支えるお蔭の力を見ない・・・だから世界はそのようになった。』
スピリチュアルの世界が見えだすと、世界が広がる・・・・と思う。
しかし、同時に「見えなくなっている」ものに気付かなければならない。
「見る」という心は存外「見たいものを見ている」ことがほとんどである。
この世以外に「三千世界」がある。
その「三千」のうちの一つが見えたからと言って、すべてが見えたわけではない。
見えるものに囚われて見えないものを蔑ろにしてしまえば、失うものの方が大きいのかもしれない。
恐らく「あなたは誰?」という問いに対して【岩長姫】が教えてくれた道しるべであろう。
『見えるところばかりを探しても私は見つからない』
ということなのだろう。
「目で聞き耳で見てこそ聖(ひじり)なり」
善も悪も、美しさも醜さも全てが神の現れである。
それは神の現れを単により分けた意識にすぎない。
それを「より分けた」時に岩戸が閉められた。
人の心に出来た「岩戸」となった。
『岩戸開かねば我は見つからぬ』
天を照らすだけの世は終わり
しかと地を照らし国を照らす世と成さねばならぬ
お蔭の力が基つ神の力
当たり前に在る力
失えば生命は生きてはゆけぬ力
『天地グレンであるぞ』
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