古事記には上つ文(うえつふみ)にある【生幸名基幹大神(いざなきみのおおかみ)】がとばされているという。

だから

「なぜ伊弉諾神と伊弉冉神は分かれたのだろうか?」

ということがわからない。

つまり

陰陽別なのがあたりまえとなっている。



本来一つであるものが二つに・・・・

しかし最初から二つとされていれば一つになるということは想像がつかない。

想像がつかなければ創造できない。




『瞳じゃ』

突然の言霊

「ひとみ・・・ひとみ・・・・・・ひとみ・・・・・!!」

なるほど

霊(ひ)と身(み)



『ではなぜ左(ひだり)右(みぎ)と言うか?』

・・・・・・・

「霊田理、身器」

『いろいろあるがそれもある』

(まだあるのか(^^;))



『霊(ひ)は田(かみ)の理(ことわり)、身(み)は器(うつわ)。だから霊(ひ)が先身(み)は後。』

『天照は左目、月読は右目。霊(ひ)と身(み)の理(ことわり)。だから瞳じゃ。』



『左回りの渦、右回りの渦、どちらの渦に在るか?どちらの巡りにあるか?』

「右まわりなら身が先ということ。つまり・・・」

『蛭子』

「虫に至る子ですか・・・・」




 龍は本来左回りの渦

 右回りの渦は蛇龍

 龍の力は勢

 巡り取り戻す力




『神との結婚、陰陽和合、神人和合、それが生幸名基幹大神となる。』

「なるほど」

『それで【別れた夫婦神が再び出会う岩戸開き】となる。霊田理と身器が結ばれて言の葉名開く。』

『身器が先ならば霊田理の理(ことわり)失い蛭子となる。蛭子だらけじゃ。逆の巡りの渦が渦巻いておる。』



龍は渦

理(ことわり)の渦

グレンと渦を巻き返し

瞳定めて花開け