彩(いろどり)




浅緑、浅葱、萌黄、鶸萌黄、鶸色・・・・・

日本語を使う日本人は微細な色の違いを玄妙に表す言葉を使える

色だけに限らず香りや音色や味わい、季節の移り変わり

人の表情にすら微細な言葉の変化を使う


現代人はどんどん使わなくなってきており、日本語は時間とともに退化している

それでも微細な現象を捉える力はおそらく世界随一だろう



『耳で見分けて、目で聞かしやれよ、夫(そ)れで聖(ひじり)の身なるぞや』

と白隠禅師は言う


また

『耳で見て 目で聞き 鼻で物食ふて 口で嗅がねば 神はわからず』

と大本教の出口王仁三郎氏は言う



霞身を超えて真澄身の微細で仄かな領域の神を知るには、この世の現象の微細なる玄妙の顕れを捉える力が必要である


高度な神は人には懸からない

耳元で囁くこともない

微かで繊細な・・・

しかし確かな違い


十二単(じゅうにひとえ)を折り重ねるように玄妙なる彩の差を森羅万象感じ取る

それが可能なのは【言葉】

色や香りに情緒が重なり時間が重なり生命の息吹が生まれる

そんな【言葉】を使うからこそ

森羅万象の微細な現象の中に

ありありと息づく【神】を知ることが出来る


世界広しといえども虫の声を精妙に聞き分けられるのは日本人だけである

(*何とかというどこかの国の部族お聞き分けれるらしい)

それは日本人が虫の声を【言葉】として捉え感じ理解し得るからである


聖書の日本語訳を読むといつも思う

「この人たちが日本語を知っていたら、もっと簡単に理解できただろうし、もっと簡単に説明もできたのだろう」

言葉が足らないゆえに表現が足らず・・・

そんな感じである



神を知る前に

森羅万象の微細な現象を捉えることが必要なのだと思う

それすら解らず神を解るのは難しい


『耳で見て 目で聞き 鼻で物食ふて 口で嗅がねば 神はわからず』


玄妙の領域を知るには五感の全てで【言霊】を受け取る

そのために五感を常に掃除する

それは五感によって心に入ってきた汚れを常に掃除しておくこと

その澄んだ穢れ無き心が五感を真っすぐ感じ取る繊細なものにする

その繊細さが玄妙に現れた【神】を捉える


森羅万象の妙

言葉の妙

その融合が【神の名】となる


それぞれの神にある様々な彩

それを顕す言葉があるから日本には八百万の神々が幸わう


一つの色

一つの音

一つの香り

一つの味わい

一つの感触

一つの現象

そして一つの言葉

それら一つの中に十二単が折り重なっている

さらには自分自身にも・・・・・


それを感じ取る心が

『生まれ赤子の心』

仏陀もキリストも同じ言葉を残している

仏陀は天上天下唯我独尊と

キリストは「乳飲み子が乳を求めるように・・・」と



『春は花、夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷(すず)しかりけり』

・・・・道元