教えを剥ぎとる




人は生まれてから両親やそれに付随するものとの関わりの中で生育し、その過程で「性格」という思考パターンが形成されてゆく。

父親との関りからは「社会」との関りを学び

母親との関りからは「情動」を学んでゆく

そうやって社会との社会と関わる「立ち位置」が決まり

人と関わる「立ち位置」が決まってゆく


そうやって形作られた「性格」は本来の自分が在るべき姿なのか?

そうやって学んだ「立ち位置」は本来の自分が在るべき場所なのか?


思考や行動、言動、感情が発動するきっかけとなるものは本来の自分の在り方なのか?



自分の性格や感情の切っ掛けは本当の自分なのか?




『我を疑え。さすれば我に回帰するであろう。』


ニーチェは「ツァラトストラかく語りき」の中でそう語った。


自分の本来の姿とは・・・・

それをとことん疑い紐解いていったとき

本来の自分に回帰する


生まれてから学びとって形作った「自分」という一個の人間

それを完成させた「教え」を一つ一つ剥ぎとってゆく

とことん剥ぎとって最後に残った玉

それが本来在るべきであった自分である


「生まれ赤子の心となる」


それは無邪気で無責任な自分に回帰することではない

生まれたままの魂の衝動を自分の真ん中に据えること

自分の真ん中にある魂の火をこの世に現わすこと

『これが自分である』

そう堂々と表現すること




形作られた性格や感情は

思考を停止させる

それは

魂の問いに答えられなかい者たちの「教え」であるから

時に思考を停止させ

時に思考を歪め

時に感情を揺さぶり

そうやって応えることを逸らしてきたがゆえ

「思考停止」の思考が作られた




自分の真ん中にある魂とはいえ何であるか?


それは『思い』

人の真ん中にある『思い』

生まれてきた『思い』

生きる『思い』

その『思い』の珠(たま)

珠の思惟(しい)が魂

それが『火の玉』である


ゆらゆらと燃える玉

その火が本来の『生』の在り方

その火を燃やしこの世を照らす

それが本来の『生』の在り方

その火灯りをこの世に現わす

それが本来の『生』の在り方



その火を打ち消す「情け」

生まれてから教えられた数々の学び

火を歪め

火を塞ぎ

火を打ち消す水




自分の思考を疑え

自分の感情を疑え

自分の在り方を疑え

そうすれば本当の自分に回帰する

一枚一枚皮をむくように

教えを剥ぎとってゆく

生まれ赤子の時の『珠の思惟』に辿り着くまで

魂の火に辿り着くまで

自分の真ん中に辿り着くまで・・・・・・