現代のIQ至上社会ではEQを必要とする芸術や哲学も
IQは極端に高いがEQは極端に低い・・・というものの価値のもと判断されてしまう。
ましてやスピリチュアルとなるとIQでもなくEQでもなく「松果体」や「神経」も総合した能力がなければ理解することは出来ない。
そして、理解出来なければ『無いもの』として扱われるのが現代のIQ至上社会である。
そんなIQでもEQでも判断できない領域であるからこそ、その不確実性を少しでも確実性あるものとして高めなければならない。
いくらわかりにくいからといって、わかる人にはわかるのである。
それはたしかに『在る』ということ。
IQでもEQでもない能力の高さを持ち得る者の常識である。
しかし、それでも現段階では非常に『朧気(おぼろげ)』な不確実性を含んでいる。
それは、「人の身ではまだまだ理解に程遠い」からである。
そんな『朧気』な世界だからこそ、『わからない』まま突き進むことは危険を伴う。
そのわからなさの中で唯一確実性に近づけ得るものが『整合性』である。
一度ならず二度までも・・・
二度ならず三度までも・・・・
そうやって事実を突き合わせて整合性を取ることですこしでも過ちを防ぐことが出来るのだろうと思う。
禊ぎ祓い
禊ぎはまさに身削ぎである。
身体の水の身を削ぎ霊の身を削ぎ魂の身を削ぐ。
外科手術と同じ。
それゆえに間違いは許されない。
だからきちんと整合性を取らなければならないし、整合性が取れなければ安易にできない。
禊ぎに限らず他のスピリチュアルでも同じことでであるが、間違ってしまった場合に「副作用」の大きさが全く違う。
そして、そんなことを安易にやってしまえば、自分の魂を穢すことにもなる。
だから【祓い】で済むならそれで済ませることに越したことはない。
【祓い】でも【掃除】でも如何ともしがたい場合だけ【禊ぎ祓い】を行う。
本当に【禊ぎ】が必要なら、それ相応の『導き』が訪れる。
ただ、その『導き』をしっかりと受け取れるかどうかが大切である。
霊剣で斬るほどの禊ぎの場合、繋がりを断つのか、そのものを斬り捨てるのか・・・
または炎で焼くのか
虚空に打ち消すのか
水に流すのか・・・・
そんな選択をすることも必要となる。
身が無いからといっても、明らかに生命はあるわけである。
しっかりと対峙して確かめ選択しなければならない。
【禊ぎ】が必要か不要かの選択を『整合性』に求めて決断し
手段と結末を見て対峙して確かめ決断する。
その決断に人間の価値観の中の「善悪」は無意味である。
『悪も神に赦されて在る』
その事実をしっかりとわきまえて選択しなければならない。
常に「悪」であるものはなく
常に「善」であるものもない
善悪は無常に変転し続ける状態でしかない
悪も善に転化し善も悪に転化する
それが生命の証である
そして霊剣は【神武】の証。
ゆえに「神心」となって振るうべくものである。
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