神を顕す



多くの人がたぶん勘違いをしていると思いますが

「神を顕す」ということは


『我は〇〇神である』ということを顕すに非ず



『拝まれたい』という欲求が

おかしな神を顕すこととなる



神を顕すのは霊能者や霊媒師というわけではなく

自分の生き様の中に『顕れる』こと

その顕れた神を知る必要はなく

この世に行いを『顕す』ことが

『神を顕す』ということ


なまじ力があるせいで横道に逸れてしまう人も多いと思う

『選ばれしもの』などという勘違いも生まれる



選ばれる前に自ら選んできている

目の前にあるもので最善を尽くせるように備えてきている



かつて大本教の出口王仁三郎氏は二つの顕し方で神を顕した

一つは言葉

あますことなく『言葉』で顕した


もう一つは陶芸

夢中で作り焼いた器に『神』を顕した



顕し方は人それぞれ

自分の『今』で顕すのみ



どの神を顕すのか?


そんなことは決まっている

自分の中心にある神

それを顕すために生まれてきたのだから


己の身体が神の宮

己の心が本殿

己の魂が鏡


ゆえに鏡曇らすべからず

鏡歪めるべからず


鏡は心の水面

情けで歪み曇る


水の下に火があるから

水が焙られて歪み曇る

火を水面の上に掲げよ

そして静めた水面を照らせ

透き通る水の奥に

神の光が見えるはずである



心を掃除せよ

心を整えよ

目移りは心の散らかり

内の如く外も然り

内が散らかれば外も散らかる

心が曇れば眼も曇る

曇りた眼で神は見えぬ

曇りた心に神は顕れぬ



神を顕すのは『事』である

事(コト)の中に音(オト)あり

そこに神を響かせる

琴(コト)の響きは今を響かせる音

今という瞬間瞬間に神を顕すコトである