世紀の大予言者である大本教の出口王仁三郎氏は、その生涯をもって『神の演舞』につとめた。
予言や奇跡を起こすことは『神の型』をこの世に示す一つの手段であり、大切なのは【そこ】ではなく【神々の演舞】をこの世で【舞う】こと。
『足跡を見る』とは『軌跡を見る』ことであって、そこに『神』が現れていたならば、それは『奇跡を見る』こととなる。
だが実際は奇跡でもなんでもない。
唄うたいは唄の神を演舞し、絵描きは絵の神を演舞し、農家は穀物神を演舞し・・・
様々な『己の神』を現しこの世に『神の型』を示している。
目を見張る【奇跡】をもって神を示したとき、大本教がどのような経緯を辿ったかを見れば、奇跡を求め、奇跡を起こすことの愚かさを知ることができる。
大本教信者が投獄され拷問を受け獄中で亡くなった人も多いという。
【神を顕す】とは
自分が持って生まれてきた【情熱】をこの世に示すこと
魂の中に燃える炎
それが情熱となってこの世で生の謳歌する
その情熱の舞姿こそが【神の型】である
己の神を演じよ
なぜなら魂は神である
意をもって
情熱をもって
この世で喜びを舞いにきたはず
その舞こそが
【神々の演舞】となる
夢中で情熱を追うことが
【神妙】の領域に至る道
神が顕わる妙なる姿
神人和合した【真人】の姿
神を顕した人の舞い踊る姿がこの世に満ちたとき
この世に神々が舞い踊る
世界は【ミロクの世】となるだろう
教えの中に神は居らず
足跡の中にこそ神がいる
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