最適と最善




昨日、今日と早起きしたので眠いはずですが、頭の中でクルクルとめぐるものがあるのでどうにも眠れない。

整理して吐き出しておかないといけないのだなと思い、こんな夜中に書いています。



・・・・・


自分のしていることが本当に正しいのか?

ちゃんと出来ているのか?

間違いはないのか?

そんなことはよくあることです。


だからついつい『間違いのない』と思える『正解』を求めてしまいがちになるのだろうと思う。

それは裏を返せば『間違えてはいけない』『失敗してはいけない』という恐れからくるもの。

だから恐れを打ち消すために『正しい形』『正しい在り方』を求めてしまう。

これは【最適化】を求めることなのだろうと思います。


私の場合、16歳で社会人になっていたので、早いうちに『既定路線』の枠から外れていたため、かえってこの【最適化】のパラダイムに陥らずに済んだのかもしれません。



学校で長らく過ごしていると、どうしても『答えは一つのパラダイム』に陥ってしまうといわれています。

繰り返し繰り返し試験をして、【一つの答えを追い求める】習慣が出来て、さらにそれが他者からの【評価】となるわけで、それを若い時に徹底的に経験させられたなら、当然思考も感情もその【パラダイム】に沿ってしまうのはやむをえません。


けっしてそれが悪いわけではなく、【最適化】を求める場合にはその思考はもっとも適しているかもしれません。

様々な環境にいかに適合していくか?

そのためには【最適化】の能力は欠かせないでしょう。

そして、日本製品の生産性の高さ、上質さはそんなすぐれた【最適性】から生み出されています。



ただ、現状ある環境や枠組みの中で一番いい形を求める・・・という限定された括りというものが否応なしに立ちはだかります。

だから、もし自ら『独自の道を歩む』場合には、それが大きな壁となってしまいます。

『独自の道を歩む』ということは、ある意味『既定路線』から外れていくことでもあるからです。



・・・


スピリチュアルなことに関して言うと、『形』ある実態的なものがないわけで・・・

だから

  • それが本当に『有る』のか?
  • 自分がやっていることが本当に『出来て』いるのか?
  • 自分は本当に『正しい』のか?

それは本当に雲を掴む話のように思えます。

思えますが・・・

それは「スピリチュアル」という分野だから・・・なのでしょうか?



例えば、寿司職人がお寿司を握りお客さんに出すわけですが、その握ったお寿司を職人さんは『食べてない』わけだから、それが実際に美味しいかどうかはわかりません。

長年の経験と勘でそれが『美味しい』だろう・・・・ということでもないはずです。

お客さんの顔を見てシャリを握りネタを載せてお客さんに『美味しい!』と言ってほしい・・・

そんな心を込めて握るから、毎回必ず『同じようでも同じではないもの』を握っていると思います。

その時その時の状況や環境、お客さんの状態などなど様々な要素をいつものように感じ取り、それらを無意識的にでも集大成させた結果、一つの握りが生まれるのだと思います。

職人さんはシャリを握るとだいたい同じくらいの数の米粒を握っていると言います。

でも、握り具合やお米の炊け具合や載せるネタによってさまざま変化するでしょう。

そんな過程を経て出された一つの握り寿司ですが、それを職人さんは決して【味見】することはできません。


では、職人さんは何をもってその寿司が【美味しく出来たか】どうかを判断するのでしょうか?

それはやはりお客さんの【美味しい!】という言葉や顔や態度でしか判断できません。



何が言いたいかといいますと、結局は【スピリチュアル】の『わからない』も、【お寿司屋さん】の『わからない』も『全く同じ』ということだと思います。

形があろうがなかろうが、自分では判断できず、唯一相手の反応だけしか本当の【答え】を知るすべはありません。

スピリチュアルであろうが、寿司屋さんであろうが、パン屋さんであろうが、大工さんであろうがそれは全く同じことのはずです。


スピリチュアルを仕事とするということは、ある技術に特化したそんな【職人】であり【スペシャリスト】であるはずです。

そして、つねに相手の【最善】を尽くし続けることが、【プロフェッショナル】であると思っています。


もし【最適化】が最も優れているならば、工場生産のお寿司のほうが美味しいはずです。

工場生産のパンが最も美味しく出来るはずです。

最適な炊き具合、最適なシャリの量、最適なネタのかたち、最適な温度で計算されて作られたものが【一番美味しい】となるはずですが、実際はそうではないでしょう。

それは【食べる人】【受ける人】それぞれ【違い】があるからです。

だからその時その時の【最善】が【最もいいもの】になるのだと思います。


そして、それは【絶対的な正しい形】というものも無ければ【絶対的な正解】はありません。

そして、【常に100点満点】というのもあり得ません。

たとえ工場生産で均一なものが作られようと、受け取り手が違えばそれで点数は変わってしまうのですから。

ただ、最善を尽くす場合、同じ点数を狙えなくても、期待値より上へ上へ・・・という気持ちが結果を生み出します。

だから【予想以上に美味しい、嬉しい】という言葉が聞けることになります。

そしてその【逆】も然り

【予想以下の味】と言われることもあるでしょう。


確かに【最適】を求めれば『この程度』というところは点数を取れますが、それはとりもなおさず『誰でもいい』ということにもつながります。

そして、そこには決して【独自性】という【自分自身】といものが欠落したものとなるはずです。



一見、安心なはずの【最適化】は、職人にとっては単なる【パラダイム】という【型枠】になってしまうわけです。



学びや教えというものは、ある種の【基本の形】であり、それは『覚えるため、知るための最適』であるものです。

いずれは【壊して】いかなければいけない『パラダイム』であります。

その壁を壊して乗り越えて、初めて【自分】という【独自性】が生まれ、生きてきます。

そして、その壁を壊し乗り越えるのは【経験】の積み重ねのみです。

【型を壊すための型】などありません。

乗り越え壊すのは自分の意思であり行動です。

自分が進みたい方向の壁を壊し乗り越える・・・・

それが【プロフェッショナル】の第一歩となるのです。



その壁の外側にはもう【最適化】を求めることはできない領域です。

そして、【正解】や【最適】の【無い】領域です。

自分を高めたいならば、常に【最善】を尽くすこと。

『前へ前へ、上へ上へと進む』ことです。

それを続ける限り成長は止まりません。

それを辞めたときに成長は止まります。



自分の目的は【最適化】なのか【最善化】なのか?


それこそ、どちらが正しいわけではなく、どちらが良いというものでもない。

ただ【道】が違うということです。


【最適化】は最適な【形】や【あり方】を求めるもの

【最善化】は最善の【行動】や【反応】を求めるもの


常々そう思っています。