自分を主張することと、自分の過ちに目を塞いで自分の正しさばかりを主張することは違うんだよ。
主張が争いとなるのは後者のほう。
自分を主張するとは、自分の全てを認めた上のこと。
善も悪も愚かさも恥ずかしさも・・・
そして、その思いの「始まり」を知る。
その思いの始まりの馬鹿馬鹿しさに気付けたなら、自分を主張する意思無くともその生き方が他人の耳目を引き、自分の主張は自然と立ち始めるでしょう。
自分を主張するとは、自分であることをまるごと生きることです。
まるごと生きるから丸くなる。
自分を部分部分で隠して、見せたいところばかりを際立たせていれば、デコボコのトゲトゲになる。
そんなデコボコトゲトゲを主張すれば、人を傷つけるばかりとなる。
そんなトゲトゲが向かってきたら、ケガしないように人は防衛するしかない。
逃げるしかない。
戦うしかない。
だから争いになる。
デコボコトゲトゲをそのまま見ない。
凸があれば凹みある。
それは陰陽。
己の陰陽を取り違え
己の陰を己から隠すから
己の陽の裏に陰あることとなる
陰を隠すための陽は【陰】なり
そして陰は【忌(いん)】となる
燃え盛る忌火には慈しみを与えよ
動かぬ忌土には種を植えよ
冷えて固地した忌金には情熱を与えよ
流れず淀む忌水には大地を手向けよ
死した忌木は倒して滅せよ
【陰陽反転・五行相和】の理なり
恵の流転なり
ようやく
闇と和し変ずる【調和の大祓】の【響き】が奏でられます。
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