【赦し】の先にある【許されざる】もの




本来許してはならないものを、自分の眼前にある物事を赦してしまうことで、【許されざる】行為であることを【肯定】してしまうことが世の中には本当にたくさんある。

目の前の人に対する同情心であったり、「仕方ない」という諦めで在ったり・・・


昨年末からそんなことでいちいち腹を立てている自分がいます。

何に腹を立てているかというと、【許されざる】ことやものへの【野放し状態】に対して、前記の【赦す】ことが【慣用】になっていることにである。

そして、【赦さない】ことへの理解の無さ・・・に対してでもあります。


そして最大の苛立ちは【赦す】と【許す】が全く同じように使われている事。

【赦す】の意味を調べると、【許す】に帰着してしまうことが多い。

ゆえに分け隔てが出来なくなっている。



とある教会のの神父さんがブログで書いておられましたが、イエスは【赦す】ひとであるが安易に【許す】人ではないと。


【赦す】とは自分自身が『審判』する座から降りて、審判を『神に委ねる』ということであって、決して罪を【許す】ことではない。


罪を【許す】ことは更なる罪を増やすことへ繋がってゆく。



目の前の赦せるものを赦すことで、その先にある【罪】が【許されてしまう】としても、多くの人は目の前の【赦し】を選択する。

それを【赦さない】とした時に、自分自身が【悪】となる、もしくは【悪】とみられるだろう。

だから【赦し】を選択して、【許されざる】ものを【許す】結果となってしまう。



こんなことに憤りを感じながら年末年始を過ごしていたわけで・・・


それでも【赦せない】ものは【赦せない】わけで

そんな【赦し】が生み出した【リスク】が蔓延っているわけで

放置すれば当然土台(地)は揺らぎます。


【赦さない】ことの理由を滾々と説明して【赦す】ことのリスクを滾々と説明して・・・

更には目の前の【赦さない】相手に対しても【赦さない】理由とリスクと可能性を滾々と説明して・・・

ようやく【赦さない】道理を理解してもらえたので一段落。




人は善悪で色分けをする癖がついてしまっています。

だから【悪】を避けたがる。


しかし

優しい悪があり

冷たい善がある

それが今の世の中だと思います。



その【悪】は『本当の悪』であるのか?

その【善】は『本当の善』であるのか?



【愛】の名のもとに【赦され】蔓延る【悪】がある

それを赦す【善】という名の【悪】がある




そんな【善】を赦さない【悪】となることを恐れるなかれ・・・・・

自ら【悪】を抱き【善】と成さん・・・・・・・・