【我(が)】の在り方 《追記》





”あってはならず・・・ なくてはならず・・・”



【我】を捨てよ

【我】を無くせ

などとよく言われますが

【我】が無くなれば単なる【依存心】になってしまいます。



【我】があるから自分という存在が主張できるわけで

その自分を信頼することが『自信』となり『自立』となります。

【我】は強ければ強いほど【自分】を盤石に確立できるわけです。


しかし、【我】が強ければ強いほど他人との衝突、摩擦を引き起こすわけです。



”あってはならず・・・ なくてはならず・・・”





『我は蛾じゃ』


言葉に示しあり


『我は蛾のように・・・』


それが【我】の在り方




【蛾】のように目立たず動かず

それが【我】の在り方



自分を主張(喋り)し過ぎれば【蝶(ちょう)】となる。

それは【諜(ちょう・はかりごと)】となり

そして一方的な【牒(ちょう)】となり押しつけとなりうる。

*牒(ちょう)とは、律令制における公文書の様式の1つ。-Wikipediaより



・・・・・



”【我】を主張することは【我】を尖らせることとなり

他人を傷つけ自分をも傷つけるもととなる”



”【我】は【蛾】のように静かに動かず

【根】を張る【木】と同化する【蛾】の如く 自らの【柱】と同化せよ”



”【柱】は【意思】に立つ【木】

【意思】は【石】の如くあれ”



”【意思】を【思惟(しい)】とせよ

川の水で洗われ磨かれた【石】の如く

【意思】を玉のように磨け

【意思】は【思惟】となり

やがて【玉】のような【思惟】となる

それが【魂】の顕れである”



”【魂】は盤石の【磐根(いわね)】

不変の【意】である

そして不変の【磐根】に立つ【柱】

それが【宮柱】である”



”【柱】は丸くして尖らせるべからず

尖れば諸刃の剣となり自他を傷つける”



・・・・・



『【我】はまあるく和らぎながらも凛然としていなさい

それが【生命のゆらぎ』をゆらがせる和らぎの心です』



「あ・・・なるほど。そういうことでしたか。」

一年以上前の『導き』がここにきて着地しました。




『【我】を張り尖らせるのは【争い】です。それをさせるのが【恐れ】です。【痛み】です。恐れを癒しなさい。痛みを癒しなさい。』





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《ここから追記です》


ブログを書き終えてゆっくりとお風呂に入っていた時の【姫】との『問答』です。

お風呂場でよくやっています。

それは、意識が他に散っていないからでしょう。



・・・


「こんなブログを書いていて、しかも【龍】だの【姫】だの色々と語っているのは【我】を張っていることではないのかな?」

『逆じゃ。そなた心の中では未だ【伏せておいたほうがいいのでは?】と思っているであろう。』

「Σ(゚Д゚)!!」

『ほれ見ろ。それが足かせになっているのがわかるであろう。』


「・・・・・・なるほど」

確かにそのとおりである。


『蛾が蝶になろうとして羽を立てておる。それが【棘(とげ)】となるんじゃ。まだ【普通の人】であろうとしている。それが棘となっている。』


痛いところを突かれています(^^;


『【イビツ】でいいと言ったはずじゃ。頭では理解しておろう。だが心が納得し切っとらん。それゆえ【イビツ】でありながらも【普通】でもあろうともがいてる。尖る証拠じゃ。』

『だからさっさと放せ。』


「う~~~~ん。」

頷くしかありません。


「よし、ではこれも書くぞ!」

『だから放せ(話せ)と言っておろう。』

「・・・・・・(-.-;)」


言霊なのかシャレなのか(^^;



・・・


対話ですが【声】が【聞こえる】わけではありません。

姿も見えません。

思考を共有している・・・

心という空間を共有している・・・

そんなところです。


思考の波動が違い、思考の起こりに『自他の違い』があります。

その『違い』に気付ければ、対話が生まれます。

その波動がもたらすイメージが脳裡に映り、脳裡に聞こえる。



”だから思考が大切である”


次は違うお方の言葉です。

今日はよく出てきます。


”思考が無ければ繋がれん。思考に囚われ思考が停止すれば繋がりは断たれる。ゆえに思考停止させることが【岩戸締め】となっている。”


なるほど・・・・そうですか。


スリーS政策というものがあります。

スポーツ(Sports)、スクリーン(Screen)、セックス(Sex)

これで思考停止を起こさせるスリーS政策というものです。

近頃はスマホのスクリーンでしょうね。