『因果を断ち切る』
そんなスピリチュアルが流行っています。
いや、もう時代遅れかもしれませんね。
今、私たちがここに生まれ生きているのは、『因果』によるものです。
『生きて成すことがある』
それが因果です。
『因』は自分の魂の『意』から起こったもの。
つまりは『自分で決めた』ことです。
そうして生まれた。
その祝福が『因果』です。
魂の『縁(えにし)』があり、その縁に『意』を与えて創った『因縁』
生まれ、生きている中で巡り会う予定が『因縁』
『生きて成すこと』のためのめぐり逢いです。
巡り会うそのために『導き』がある。
導かれ、めぐり逢う。
『成すこと』のために。
生まれてこのかた『苦労』が多い人ほど、『因果(カルマ)』が強いと言われます。
それは『成すこと』が大きいということ。
そして『期待されている』ということ。
そのための『身魂磨き』をしています。
そうして磨かれて強く大きく美しくなった人の『身魂』に『神』が宿る。
自らの因縁の『守護神』と『神人和合』する。
導き手となり、やがて『結ばれる』時のために道案内をずっと続けています。
だからどんなに苦しくても、頑張り続けていたら『ぎりぎりのところで』救いの手が入ります。
ぎりぎりまで手を出さないのは『身魂を磨く』必要があるからです。
【九分九厘努力せよ、さすれば最後の一厘手助けしよう】
それが、厳しくも優しい守護神の導きです。
時折、自分の因果(学び)は終わっているのに、状況が変わらない時があります。
それは、関わる人の因果(学び)が終わっていないからという場合があります。
自分は努力して学びを終えたのに、努力しないため学びが終わらない人の因果に付き合わされている・・・ということです。
これでは自分が次の学びへと進めません。
こんなときは『切れ』ばいいわけです。
付き合いたくもないのに付き合う必要はありません。
自分の学びがちゃんと終わっていれば切れます。
導き手、守護神にちゃんと伝えればいいです。
地球の波動上昇はどんどん加速していると言われています。
学びのつもりで生まれた魂たちも、着いてこれなくなっているのかもしれません。
邪魔するモノたちもたくさんいるのでしょう。
神々との『因果』など切れるわけはありません。
どこへ逃げようとも『神の手の中』にあるわけで、さらに言うならば自分自身が『神』の一部です。
どうして『因果』が切れるでしょう?
それを『切れる』と言う。
たぶん、純粋に『降りて来た言葉』を伝えたのかもしれません。
ただ、誰が何の目的で伝え降ろしてきた言葉なのかまではわかりません。
『審神者(さにわ)』することは大切です。
その『導き』の『整合性』をとるということです。
過去生の因果は不要になれば勝手に切れるでしょう。
『生きて成すこと』の邪魔になるならば・・・です。
しかし、生まれてくるときは『生きて成すこと』を忘れ生まれてきます。
だから生きていくうちに別の『因果』が生まれます。
神と人の間に『魔』が入り込む。
その魔ももとは『神々』であるもの。
『因果』に割り込み『因果』を結ぶ。
なかなか厄介です。
その人自身がもたらした『因果』ですから、その人自身が『意』を消さないと『結び』は解けない。
いくら『魔』を祓っても、再び『意』を起こせば『因』が生まれ『果』が現れ『因果』となります。
『魔』となりし神々の導きは『恐れ』です。
人の『恐れ』に乗じて導くものです。
ですが、ある一面から見れば単純に『悪』ではないわけです。
恐れを遠ざけてくれるという点では。
ただ、一過性のものでもあります。
本来の縁(えにし)の神と何が違うのか?
それが『創造性』の有無なのでしょう。
本来の循環は、生まれ・育ち・実り・枯れ・再び生まれ・・・・
しかし、魔の神々の循環は、既に『在る』ものをめぐらせる循環・・・
だから枯渇があり恐れがあり奪うことへと循環して行く。
【創造すること】
それが『生きて成す』ことではないですか?
【因果を切る】としたら、前世や本来のカルマではなく、現世で生み出した『恐れ』の因果律を切ること。
それには『結び』を解かなければなりません。
解くには『意』を起こさなければなりません。
そして、本来の『因果』『因縁』『導き』の和の中へ。
縁(えにし)の神との【結び】へ。
そのために自分の【魂】と繋がってほしいと願います。
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