ずっと思っていたのですが、スピリチュアルの世界があまり好きではありませんでした。
愛や光を語りながらも、語る人に『道』というものが見えないからです。
当然、人として自分など及びもつかない堅田地はたくさんいます。
ですが、そうではない人の方が後雨滴に多いように見受けられます。
スピリチュアルの世界はなかなか分かりにくい、つかみにくいことだけに、整合性をとることが難しいからです。
それでも自分の身にスピリチュアルなことが起きてしまい、全くわからないことをなんとか知ろうと躍起になっていました。
自分の身に起きたことの整合性をとるために。
この世界の情報は溢れんばかりにあります。
ですが、よくみていると、同じような見かけた文章があちこちで散見される。
まるでコピペしたように・・・・
つまりは『自分の言葉』ではないんですね。
誰かが言ったことを『おうむ返し』にしているばかり・・・
そんな人がたくさんいます。
また、手段や法則にとらわれて、完全に『道』を失っているように見えます。
いくら法則や手段が『正解』だからといって、それをしても良いか悪いかという『道』の部分をすっ飛ばして島っっているのが現状だと思います。
目に見えないことだけに『道』にもとるかどうかということを自分に律する必要があると思います。
愛を語りながら人々にかえって『恐れ』を蔓延させているスピリチュアルの現状は、現実と和合するにはほど遠い世界です。
人は社会で、世界で生きる上で『道』にそっていく必要があります。
それは当然至極の当たり前のことなのです。
手段や法則にとらわれて人の道から外れてしまえば、そんなスピリチュアルは魑魅魍魎の類いとなんら変わりません。
私がスピリチュアルにいちばん求めたのはそこです。
なにもわからないけれど『誰』ならまっとうに導いてくれるのか?
その基準が『人としての道』の有無です。
おかげで今では稚拙ながらも少しは理解できるようになったと思います。
そして、人の道に外れず手段や法則にとらわれずにいられるのもその方のお陰です。
神と繋がるということは、簡単なことではありません。
ましてや『道なき人』にどうして神が繋がるのでしょうか?
本物のスピリチュアリストなら、当然ながら『魂』まで見つめています。
道にもとることをすれば、当然魂は救われません。
だからこそ『道』が大切なのです。
私がもし道なき人の教えに従っていたら、稚拙ながらも神々に導かれた今の自分はないでしょう。
それほど『道』とは大切なものなのです。
手段や法則を楽しむのもいいかもしれません。
ですが、私は『魂』の安らぎのため、そのような教えはしないでしょう。
自分が導かれた『道』というものを大切にしたいと思います。
恩師に捧ぐ
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