人生は魂があらかじめ決めていた流れに沿って進んでいきます。
しかし、細かい部分までは決められない。
それは、生まれて記憶が無くなってしまえば、実際は人生がどう転ぶかわからないからです。
予定外の転び方をして軌道修正が難しくなってくれば、強烈な出来事で修正が図られる場合もあります。
ですが、たいがいの場合は『気付き』というカタチで知らせながら、修正を図っていきます。
この『気付き』を邪魔するもの
それが「自我の執着」であります。
自我の執着が気付きを無視して、軌道修正をどんどん遅らせてしまう。
だからこの執着を手放す必要があるんですね。
しかし、執着している時は『執着』とは気付きません。
そのための導きからの『気付き』も見ようとしません。
そうなると、いつまでたっても人生は次の段階に進めないことになります。
でも、人は気付こうと努力します。
そのために様々な情報をキャッチしようとします。
ですが、『執着』によって歪められた『気付き』は、執着を執着と気付かせないよう、別の『気付き』を偽装して、それを『気付き』としていきます。
自分の人生にとって、自分の未来にとって『かけがえのないもの』と思っていたものが、実は執着であり囚われであり・・・・
そんなこともあります。
【魂のねじれ】とは
あらかじめ決めてきた『人生の流れ』のねじれです。
そろそろ次の段階、次の道に進むはずなのに、執着や囚われによって別の道に進んでいると、時が経てば経つほどに【ねじれ】が酷くなってきます。
休日で旅行に行くときには旅行用の服装と荷物を持っていきます。
そして休みが終わり仕事へ行くときは仕事用の服装と荷物を持っていきます。
仕事へ行くのに旅行スタイルで・・・
【ねじれ】とはそんな感じです。
旅行が楽しかったから、旅行に執着してしまっているわけです。
また
『これ渡しといて』
と預かったものがあるとします。
でも、それをしばらく持っていたら『執着』してしまい、自分が欲しくなって渡すのが嫌になり、渡さず自分のものにしてしまう。
でも『渡す』前提の人生なので、それを自分のものとして持っていく未来は予定にありません。
予定にないものを持ってそれに執着していたら、本来行くべき次の道、段階へは行けません。
執着、囚われに依る堂々巡り
その繰り返しが【魂のねじれ】となっていきます。
手放す
自分が『握って』掴んでいるものの手を放してみる。
『捨てる』ことではなく『離す』
すると、いらないものは目の前から消えていきます。
これを追わないことが『捨てる』です。
そして
未来に必要なものは必ず残ります。
捨てても戻ってきます。
その『残ったもの』を再び握り締めて未来へ向かいます。
すると、捨てて空いた空間には未来に必要な新しいものが現れてきます。
次の旅に必要なものが揃うわけです。
それを一つ一つしっかりと結んでいく。
捻じれのない魂と現実を結びなおしてゆく。
次の段階、次の舞台へ
魂が決めて来た次の新しい未来へ
扉が開きます。
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