『三界共和の始まり』 ~そして陰陽の力の解放



先日『唐櫃石神社』に訪れた際に、ふと『こちらへ来い』というように『古寺山』のほうから呼ばれたが、その日は時間の都合もあり「後日」と約してその日は唐櫃を後にした。

そして数日後に『古寺山』へ向かうべく再び唐櫃に訪れた。


『古寺山』に登る前に『唐櫃石神社』を管理している『下唐櫃山王神社』で参拝に行くと、すでに道案内の龍たちが神社にたむろしていた(笑)


《下唐櫃山王神社》




『下唐櫃山王神社』ともうひとつ『上唐櫃山王神社』というのがあるが、そちらは先日、『唐櫃石神社』の帰り道に何故か呼ばれるように立ち寄っていた。

いつもこういう時は朝から何も食さずに向かい、事が済むまで食べられない。

先日は『唐櫃石神社』の帰りに

「終わった~」ということで途中コンビニに寄って肉まんを頬張りながらぼ~っと山の方を眺めていたら

『こちらへ・・・・』

と呼ばれたわけである。


《上唐櫃山王神社》



実は六甲山の登山用のMapを見ても『古寺山』への道は載っていない。

それゆえ過去に登ったことのある人のルートを参考に『古寺山』へ入るためのわき道を見つけていくのだが・・・

そのわき道近くに来ると『こっちだ』と言わんばかりに山頂へ向かうであろう道筋が光っている。

「このあたりか」

そうおもってわき道の入り口を探すが・・・・・・見当たらない(-_-;)

仕方なく道のないところを進もうとするが、『そこじゃない』と導きが来る。

気を取り直して登山道に戻り、周辺を行ったり来たりしていてようやく見つけた。

もはや『道』ではない・・・・・・


ともあれわき道に入るとルートが現れた。


低い山だからとタカをくくってハイキング気分で来たが、あきらかに『修験者』の道である。

手足を使ってよじ登るルートがしばらく続く。

そして汗だくになりながらようやく歩きだけで進める道になる。

しばらく歩くと『熊笹』に覆われた松林の小道となる。

ここはまるで『六甲比売神社』へのルートに似ている。

さすがは同社の『守り』とうたうほどの場所である。

空気感もよく似ている。


そうして歩いていると、もうそろそろ頂上かな?

というところでいきなり『走れ』と・・・・・

実はこの後六甲山も登ろうと考えていたが、この『古寺山』ルートが思いのほか時間がかかったので、後日にしようと決めたところだったので『??』と解せない。

しかし解せないながらも身体が勝手に動き、トレイルランが始まる。

そしてどんどん走っていて、頂上間近というところで根っこに足を取られ躓く。

しかし意に介さず走り続けていると再び躓く。

『なんだ?』

と立ち止まると『少し戻るよう』催促され、来た道を少し戻るとさっきは走っていて気付かなかったが、少し開けた場所があった。

「ここか?」

言いながら開けた場所に降りていく。

「あぁ、ここなんだな(笑)」


小さな庵が一つ建つくらいの広さのこの場所が『多門寺跡』である。

こんな小さなところで法道仙人は六甲比売神社を遙拝していたのだな。

磐座のあたりの雰囲気に似たこの山で何を思っていたのだろうか・・・・


そんなことを考えながらあたりを見回してみると、地面から少し『石』のようなものがのぞいている。

「なんだろう」

と思い近くに寄って石を覆っている土を払いのけて行くと・・・・・

それは見事に切りそろえられた『六角形』の石が埋まっていた。


「これかぁ」


多門寺創建の時に埋められたのか、それとも多門寺廃寺の時に埋められたのか・・・・

おそらく後者であろう。


ここに至るまでに『導く』ものと『拒絶』するものが攻防していたのがわかる。

『古寺山』の入り口で侵入させまいとするものと、導くものが攻防していた。

そしてここに近づいたところで、なんとかやり過ごさせようとするものと、足を止めさせてここへ導いたものと・・・・・



この日、出かける際に急に持たされた石がある。


厳島神社で頂いた『剣』の御魂がおさまった石(水晶)



これを出がけに持たされたのはこのためか・・・・

この六角石はよほどよろしくないもののようである。





ということでまずは式神龍を放つ

いつもは『摩利支天』の真言とともに放つのだが、今日は何故か『千手観音』真言と共に六体の龍を放つ

「よほどなんだな・・・」と思う


そして『祝詞』が始まる

ひとふたみ~よ・・・・の『十種神宝(とくさのかんだから)』から始まり

『ひふみ祝詞』を三回(三界)に唱え

『不動明王真言』を終えると

九字を『剣斬り』にして石の『意志』を割る


すると、周辺にいくつか石が配置されていることに気付き

一つずつ『剣斬り』にしてゆく


そしてしばらく場が鎮まるのをまって

「これでよし」


そしてその場を後にした




ここにたどり着くのに夢中で気付かなかったが、けっこう身体にダメージが来ている。

妙に足取りは重く、帰宅した途端に倒れこむように少し眠りについた。

「疲れた」


翌日、六甲山に登るつもりであったが、日を開けてからにしようと思う。

すべきことはなんとかギリギリ星の移動に間に合った。

あとは『明けて』からでいいだろう。



・・・・・



来年は『陰陽師』を解放する年となります。

今まで力を使わなかったのは

力に囚われ自らが『歪む』ことを避けるためです。

力に囚われ、力に溺れ、力に依存し、力に呑まれてゆく。

そして曲がってしまったことに気付かず、歪みを生んでゆく・・・・

そんな人を多く見てきた。

それゆえ力は二の次としてきたわけであり、おそらくこれからもそれは変わらない。

しかし、世界が『三界共和』した今、どうしてもその必要が出てきたと思います。



人は気付かないうちに次元の違う『なにものか』動かされているものです。

それが神であるか魔であるか・・・・

その違いがあるだけ。

さらに言うなら、神とか魔とかの色分けは、人の都合で行っているだけである。

すべては人の心次第

だから審神者(さにわ)が必要なのである。

審神者するのは『神』や『魔』ではなくおのれの『心』

『心』に曇り在るか晴れているかを常に審神者することが大切なのである。

自分に甘ければ審神者も歪み無意味なものとなる。

審神者するにも心の強さが必要となる。

自分を見つめる目は他者を見るより乾いたものとなる。

それが出来て初めて『力』というものが本当に生きてくる。

神を知り魔を知り、神の理を知りそこに沿っているのか外れているのか・・・・

神の理に添えば『神の力』となり、神の理から離れればそれは『魔の力』となる。

『力』は手段であり単なる道具である。

その元となる『心の在り方』次第で良きものともなり悪しきものともなる。

かんたんにどちらへも転んでしまう。

だから細心の注意が必要となる。



『力』に溺れた世界は過去のものとなった。

これからは『理の縦糸』と『力の横糸』を組んだものとなる。

『理の縦糸』が心に柱となって立っているか?

それが立っていて初めて『神力』が現れるのである。




癒し人 Healer by Koji

龍使いの女神の力と龍使いの力を持つ癒し人 ヒーラー & セラピスト 独自のヒーリングセラピーで『魂』まで【癒し】をお届けします そして女神の力で世界を癒します

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