鱒(マス)という魚は銛(モリ)で突くことが出来ない魚で、銛で突こうとするとあっさりと避けてしまう。
そこで昔の漁師は『鱒の掛け捕り』という手法を用いて鱒を捕まえていた。
それは、銛の先端に突き刺すための刃が付いているものではなく、横に大きな釣り針のような引っ掛けるための鈎針が付いているものもの。
これで引っ掛けるように銛を突き出すと、鱒は避けることをしない。
銛が自身から『外れている』と思うから避けないのである。
銛の先端は自身の身体を外れて抜けるが、横に付いた鈎針に引っかかって捕まってしまうわけである。
例えば心にやましい事や秘密事、隠し事があるとき、人は的を突いてきたきた質問に対しては避けようとする。
突いてきたところは隠し通す・・・というふうに。
だから『鱒の掛け捕り』のごとく『的を外して』質問する。
すると人は隠すべきところは『突いてきたところ』と思うので、その部分以外は案外無防備になるため、肝心な情報が得られるというわけである。
さらに、初めから秘密を隠したい場合、秘密にすべきところとは少しズレたところを『いかにも秘密が隠されている場所』というふうに錯覚させておく。
すると人は『鱒の掛け捕り』の逆に、的が外れたところを突くようになる。
そうやって人というものの『習性』を熟知していれば、事実というものは覆い隠せるわけである。
そうして歴史は創られ語られてゆく・・・・・
そんなことが何千年も続いたがために、本来、柱となるべきものが歪んでしまっている。
だからいつまでたっても世は治まらない。
肝腎の『地盤』が歪んでいるのだから、そんな地盤の上にいくら新しいものを建てようと、やがて歪みが出てくるのは当然のこと。
いろんなものが歪んでおり、綻びが出るたびに取り繕ってはまた歪む。
元々の柱の歪みを取り繕うため、どれだけグネグネと歪みを増やしたか?
綻びが露わとならないよう、どれだけの人を抹殺してきたか?
そんな曲がりくねった柱を支えに、歪みに歪んだ土台を基礎にして、どうして世が治まるのか?
改心無きうちは柱は正されぬ。
偽り取り繕っても柱は真っすぐにはならぬ。
峠を越えれば下り坂
芯がなければ真っすぐ立てぬ
転がり落ちるばかり
行いと言葉と心
身・口・意の三蜜揃え
柱を真っすぐ立てなければ
転がり落ちるばかり
曲がった柱に縋(すが)っては
共に転がり落ちてゆく
ゆえに誠の柱を立てよ
三蜜揃えて真っすぐな
自分の誠を拠りどころと為せ
歪みあらば心改め
御魂洗濯し歪みを正せ
もうすぐ峠
岩戸開いたその先は
黄泉平坂の下り坂
日の高天原と
月黄泉と
地の海原の
世界が重なる
三界調和の世が開く
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