倭姫の誘(いざな)い




かつて日本の学者はSumer(スメル)を皇尊(スメラミコト)と混同して『おこがましい』として「シュメール」と勝手に名付けた。




倭国の『倭』とは

イ(にんべん)の『人』に

禾(イネ)という『こうべを垂れる』象形と

女(おんな)という女性を顕す文字である

つまり、こうべを垂れる現代でも受け継がれている日本の風習をもった女性の国

それが『倭国』という文字の意味である



三国時代の魏国が『女王卑弥呼』と接して付けた文字である。

そして『倭』は『ヤマト』と読む。

つまり『ヤマト国の女王卑弥呼』なのである。


その卑弥呼が亡くなり、若干13歳で女王を継いだのが『台与(トヨ)』

卑弥呼の後継女王である。

『台与』と書いて『トヨ』

しかし何故か『邪馬台国』と書いて『ヤマタイコク』と呼んでいる。

もう一度言う。

『台与』と書いて『トヨ』

けっして『タヨ』などとは言わない。

なら『邪馬台国』と書いて『ヤマト国』がごく当たり前のことであろう。

魏の国も認めた『ヤマトの女王卑弥呼』である。

その後継者は当然女王である。

初めに記した学者の捻じれた理屈のたまものだろう。


その『台与』以降、倭国の女王の史実は無い。



この頃の時代はちょうど『神功皇后』の時代と重なる。

その神功皇后と行動を共にしていた『豊姫』という妹・・・

『倭国』という存在があり、『倭国の女王』という存在がある傍ら、『神功皇后』という名・・・

ちょうどこの頃の史実が実に『曖昧』である。



その『曖昧』さに追い打ちをかけているのが『魏国の事情』である。

これ以降『魏国』は乱により崩壊し、『魏志倭人伝』のその後は続くことは無くなった。



何が言いたいのかと言うと・・・

おそらくここが本当の『国譲り』の時なのだろうということである。


ただ、『丹後一ノ宮籠神社』の系譜には『台与』の後に『日女命』までの記述があるとのことである。(秘文書)



そして、実際の初代天皇は『神功皇后』とされる『息長足姫』の息子の『応神天皇』から・・・との説が有力なのである。

実際、理由は多々あるが『応神天皇』から・・・・という説が多い。


そしてそこから約300年の後に『聖徳太子』が出て、『大化の改新』が起き、藤原氏によって記紀が編纂されるに至った。




ここまで書いてなんであるが、もはや『権力者の変遷』などどうでもよい。

『応神天皇』が初めであるとなれば、日本としては不都合が多々あるだろう。

意図があって記紀編纂時に『神武天皇』が初めとしたのであろう。

その時の実質の『ヤマト』の支配者が別であったとしても・・・


国を譲られ継承したのだから『太古より続く』でいいのかもしれない。

歴史は常に『勝者』が『善』であり、『支配者都合』に編纂されるのが常なのであるから。

正直、もうどうでもいい気がしているぐらいである。



ただ・・・

ここ数日『倭姫』らしき誘いがこれを書き記させているように思う。

何故かは今はわからない。

『倭姫』といえば『垂仁天皇』の第四皇女である。

『応神天皇』が初代天皇とすれば『垂仁天皇』は『天皇』ではないということである。

何ゆえの導きなのか今のところ解せない。



だが一つ言えるのは、これらは明らかに簡単にぬぐえない『業(カルマ)』であるということ。

そういう意味でいうならば、『倭姫』の誘いもうなずける。

『解脱(ほど)』きたいということなのだろう。

編纂された『記紀』が飲み込めないのかもしれない。

編纂以前の人にはどうすることも出来ないのだから・・・・



また導きがあれば書いていこうと思うが、もはや有耶無耶になった歴史である。

導きが無ければ紐解けない。

しかし、『言霊』を熟知した『倭姫』である。

そして『真澄の鏡』へと導いていただいた御恩がある。

できれば聞き届けたい。

きっといい導きをいただけるだろうと思う。